介護現場で「とろみ」が課題となっている。歳を重ねたり障がいがあったりすると、食べ物や飲み物を飲み込む力が弱くなる。のどを通りやすくするために「とろみ」を付けるのだが、濃淡は数値化しづらく、加減は感覚頼り。在宅介護が広がる中で、大きな壁となっている。そんな中、岩手医科大学の研究者たちが連携し、とろみを簡単に測れる装置の特許を取得した。目指すのは、誰もが安心して食卓を囲める社会だ。
2023年1月、岩手医科大学・矢巾キャンパス(岩手県矢巾町)を訪ね、研究の現在地を取材した。
画像: 「食べる」の安心を測る、とろみ計測器とは?ー岩手医科大学 黒瀬雅之教授・齊藤桂子助教 www.youtube.com

「食べる」の安心を測る、とろみ計測器とは?ー岩手医科大学 黒瀬雅之教授・齊藤桂子助教

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「オール」が受ける抵抗でとろみを測る

「ようやくここまで来たかな、というところです」
同大歯学部教授の黒瀬雅之さんはそう言って、右手に持った「とろみ計測器」を見せてくれた。専門は病態生理学。研究チームでは設計を担当している。

画像: 黒瀬雅之さん

黒瀬雅之さん

プロトタイプは3Dプリンタで出力した半透明の樹脂製。長さ15センチほどの筒状の内部には、「オール」のような小さな棒がある。このオールが前後に動き、液体の抵抗を受けたオールの動きを、センサが読み取る仕組みだ。
「船をこぐ様子を思い浮かべてください」と黒瀬さんが解説を続ける。

「オールで水をかくと、水の抵抗が手に伝わりますよね。この時感じる『抵抗』は、液体の粘度によって変わる。そこで、『抵抗』をセンサで検出すれば、『粘度』を明らかにできると考えました」

計測器から伸びるケーブルの先のモニタには、六つの波形が表示されている。使っているのは「6軸センサ」。上下・左右・前後それぞれの「加速度」と「回転(角速度)」から、オールが受ける抵抗を数値化し、液体が持つ「とろみ(粘度)」を推測するという。

画像: 開発中のとろみ計測器。従来の粘度計に比べ、大幅な小型化に成功した

開発中のとろみ計測器。従来の粘度計に比べ、大幅な小型化に成功した

画像: 内部にある「オール」が液体の抵抗を受ける

内部にある「オール」が液体の抵抗を受ける

「目指しているのは、手軽に『とろみ』を測ること」と黒瀬さんが言う。

「業務用の粘度計はあるものの、1台約50万円。一般家庭で気軽に購入できるようなものではありません。そこまで高い精度はいらないので、薄め・濃いめ・中くらい程度の精度で、手軽にとろみを測れる装置を目指しています」

画像: 黒瀬さんはこれまでもセンサを活用した研究を進めてきた

黒瀬さんはこれまでもセンサを活用した研究を進めてきた

とろみの過不足で危険も

この研究が期待されているのは、介護現場の課題があるからだ。
私たちは何気なく「飲み込む」という行為をしているが、障がいがあったり、飲み込む力が弱くなったりすると、口に入れたものが気管に入ってしまいやすくなる。とりわけ、さらさらした液体は気管に入りやすい。

この「誤嚥(ごえん)」を防ぐために使うのが、とろみ剤だ。

ところが、とろみは数値化が難しく、「ケチャップくらい」「ハチミツくらい」「とろとろ」「さらさら」など感覚的な表現が使われてきた。その上、熱いお湯に溶かした時と冷めた状態ではとろみの強さは大きく変わるし、そもそも、その人の状態によって必要な粘度は異なる。

画像: 本人の状態や食材に合わせた「とろみ」を付けることが重要だ

本人の状態や食材に合わせた「とろみ」を付けることが重要だ

「実際の介護現場でとろみを計測している人はほぼいません」と同大歯学部教授の小林琢也さんは話す。

「何グラムの水にとろみ剤を何グラム、と毎回正確に測るのは現実的ではありません。とろみ剤の効果もメーカーによって差があります」

小林さんによれば、とろみが薄くて気管にものが入り、肺炎につながってしまった事例や、とろみが濃すぎてのどに残り、炎症を起こしてしまった事例も実際にあったという。

画像: 小林琢也さん。高齢者の摂食・嚥下を中心に診療している

小林琢也さん。高齢者の摂食・嚥下を中心に診療している

「食べる」に関するさまざまな課題に取り組もうと、同大附属病院は2021年に「摂食嚥下(えんげ)センター」を設立した。食事を口に運ぶ動作から、噛み、飲み込む一連の動作をまとめて捉え、耳鼻科医師、歯科医師、リハビリテーション科医師を中心に関連医療スタッフで構成されるセクションだ。黒瀬さんも研究者の立場として理論的なバックアップを行っている。
すると、多くの患者が集まるようになり、「臨床」と「研究」の連携も大きく進んだ。
小林さんは言う。

「多様な課題がある中で、それぞれの専門家に任せることができるようになりました。『摂食・嚥下』は高齢化で大きなニーズが集まっている分野。簡易なとろみ計測器が実現すれば、誰もが簡単に、自分に合った食事ができる未来につながると思います」

画像: 「飲み込む」は複雑な動作が連続してできる。専門的には「嚥下」と呼ぶ

「飲み込む」は複雑な動作が連続してできる。専門的には「嚥下」と呼ぶ

「ないけど、一緒に作ってみようよ」

大学を挙げて取り組む「連携」を象徴する今回の研究は、ある臨床医の疑問から始まった。障がいのある子どもの歯科医療に携わってきた、助教の齊藤桂子さんの問い掛けだ。
ただ、「最初から計測器を開発しよう、と思っていたわけではありません」と、齊藤さんは振り返る。きっかけは、障がいのある子どもやその親との日常の関わりだったという。

画像: 齊藤桂子さん。小児歯科の医師として同大附属の病院(盛岡市)で働いている

齊藤桂子さん。小児歯科の医師として同大附属の病院(盛岡市)で働いている

「障がいのあるお子さんは、発達がゆっくりなことがあります。生活の質を上げようと私たち歯科医師がサポートするとき、『飲み込む』に慣れるために使うのがとろみ剤です。ただ、とろみの基準はあいまいで家庭での再現が難しい。市販の粘度計は高価で、大きい。お子さんのいる家庭では持つことが難しいと思いました」

そこで、計測について詳しい黒瀬さんに、「家庭用のとろみを測る機械を知りませんか?」と尋ねたところ、思わぬ返事が返ってきた。

画像: 岩手医科大学・矢巾キャンパスの校舎。黒瀬さんの研究室がある

岩手医科大学・矢巾キャンパスの校舎。黒瀬さんの研究室がある

「ないけど、開発はできると思う。一緒に作ってみようよ」

齊藤さんにとって、製品開発は初めての経験だったが、この提案を快諾。こうして、二人を中心とした共同研究が始まった。

臨床と基礎研究の連携で

2021年、最初に二人が考えたのが、マドラーのように混ぜながら『とろみ』を測る機械だった。
ところが、思うような結果が出ない。「『できる』と言った手前、すごく不安になりました」と黒瀬さんは話す。

「センサの位置、『オール』の形、動かし方、速度など、色々な要素を変えながら、安定的な数値の出る組み合わせを探していきました」

こうしてできたのが、最初のプロトタイプ。高精度の粘度計と比較することで、実用に十分な精度を出せていることが確認できた。

画像: 「とろみ」の計測に成功した最初のプロトタイプ。この時点でも大幅な小型化に成功した

「とろみ」の計測に成功した最初のプロトタイプ。この時点でも大幅な小型化に成功した

「自分の役割は臨床と基礎研究をつなぐこと」と言う黒瀬さんには、苦い経験がある。
ある大きな研究に携わったときのことだ。企業とも連携して、研究開発を進め、研究チームでは思った数値が出せた。ところが、完成品を臨床の医師に見せると反応がいまいち。「あまり使われなかった、というのが正直なところ」と言う。

画像: 黒瀬さんは臨床現場とのつながりを大切にしてきた

黒瀬さんは臨床現場とのつながりを大切にしてきた

基礎研究者は現場の課題に直接は触れていない。臨床の専門家は課題に触れていても、課題を解決する『設計』は難しいことがある。課題解決のアイデアがあっても、資金がないと研究が進まない。資金のある民間企業の研究者が、手を出しにくい課題もある。
今回の研究では、齊藤さん、黒瀬さんそれぞれが競輪とオートレースの補助事業の支援を受けたことで、開発を進めることができたという。

「一緒に食べる」のために

「数値としては十分な精度が出せた」と黒瀬さんは言う。

「課題は防水と耐久性を上げること。あと、もう少し小さくしたい。食事を提供する際にちょっと測って、『これなら大丈夫』と安心できるものにしたいです」

実用化の目処が立てば、次は実際に使ってみてもらう段階に入る。そこからは齊藤さんら臨床の現場にいる医療者の役割が大きくなる。「開発がうまくいって、簡単に買えるようになって、助かる人たちがいたらうれしい」と齊藤さん。

画像1: 「一緒に食べる」のために

「介護は在宅で生活の質を高めよう、という流れがありますよね。でも、簡単なことではありません。食事の準備は時間も手間もかかる。失敗すれば、食材が気管に入って肺炎につながったり、場合によっては窒息してしまう恐れがある。課題が多いんです」

「安全」のためだけではない。とろみ計測器が実現すれば、介護が必要な人も、家族と一緒に食卓を囲めるようになる。齊藤さんはそう考えているという。

「子どもの介護の現場では、親は子どもの食事の世話をして、その後に食べることになってしまいがちです。でも、手軽に使える機器が開発されれば、食事の準備の手間を減らすことができます。そうなれば、食事の時間を共有することができる。とろみの付いた食事でも、同じような味付けのものを、一緒の場で食べることで、子どもの食事が進むこともあるんです」

一緒に食べる——。そんな日々の幸せを、妨げる壁がいくつもある。一人では難しくても、つながればできることはある。一つ一つなら越えていける。「連携」から始まった研究が実を結ぶのは、もう少し先の未来だ。

画像2: 「一緒に食べる」のために

※撮影時のみマスクを外すご協力を得て撮影を実施しています。

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