「感染を予防できる空気の流れをつくれないだろうか」——。京都工芸繊維大学の山川勝史准教授はそう考えて、“工学ワクチン”と名付けた研究を10年以上続けてきた。気流を制御して空間のウイルス量を減らし、感染リスクを減らす仕組みだ。長年この“ワクチン”は見向きもされず、「使えない研究」と言われたこともあったというが、新型コロナウイルスが大流行する今、国内外で大きな注目を集めている。工学ワクチンはどう活用できるのか。2020年8月、最前線で研究が進む京都工芸繊維大学の研究室を訪ねた。

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感染症を予防する‘‘工学ワクチン”とは―京都工芸繊維大学 山川勝史准教授

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「空気の流れ」でウイルスを減らす

ディスプレイに映し出されたのは、9人の生徒が席に着く教室のコンピュータグラフィック。前方中央にいる教師がゴホンと咳をすると、口から色とりどりの粒子が飛び出していく。粒子の数は10万個。青に近い色ほど大きな粒、赤寄りは小さく軽い粒子。教室内の気流を、人の呼吸まで含めて細かに再現したシミュレーションだ。

粒子の大きな青や緑がすぐに床へ落ちる一方、直径4ミクロン(1000分の4ミリ)以下の赤い粒子は舞い上がって教室を漂う。教室には換気扇があるが、赤い粒子はなかなか外に出ない。

マスクやフェイスシールドを着ければ大きな飛沫の飛散は防げるが、赤く表された粒子は隙間から漏れ出てしまう。教師が再び咳をすれば、教室内の細かな粒子はさらに増える。

画像: 赤い粒子だけを取り出したシミュレーション。換気が悪いと粒子は漂い続けてしまう

赤い粒子だけを取り出したシミュレーション。換気が悪いと粒子は漂い続けてしまう

「もしもこの教師が新型コロナウイルスに感染していれば、教室内で感染が広がってしまうかもしれません」

京都工芸繊維大学准教授の山川勝史さんが、画面を指差しながら解説する。感染を防ぐには、「空気の流れを変えること」が必要だという。

例えば、エアコンをつけた部屋では、対になる窓や扉を20センチずつ開ける。これだけで室内の空気は5分ほどで入れ替わり、粒子はほとんど外へ出る。40人が入る一般的な教室でも同様で、冷暖房の効果を損なわないことを考えると、この方法が最も効率が良かったという。

「感染は空気を媒体としても起こります。空間の気流とウイルスの動きをシミュレートして空気の流れを制御すれば、空間中のウイルス量を減らし、感染リスクを下げることができる。この考え方を“工学ワクチン”と呼んでいるのです」

画像: 山川勝史准教授

山川勝史准教授

スパコン「富岳」で弾き出した感染対策

山川さんの研究は、新型コロナウイルスのパンデミックによって国内外で大きな注目を集めている。4月には理化学研究所から「室内における飛沫感染予測」について共同研究の声が掛かり、世界一の計算力を誇るスーパーコンピュータ「富岳」を活用したグループ研究に取り組んでいる。

「富岳は普段使っているコンピュータの100万倍の処理能力があり、何カ月もかけて計算する複雑なシミュレーションを数時間で終えることができる。細かな動きも計算できるため、より正確な予測が可能になりました」

画像: スーパーコンピュータ「富岳」

スーパーコンピュータ「富岳」

先に紹介した教室のシミュレーションでも富岳が活用されたほか、グループ研究で明らかになったことは多い。

例えば、マスクの有効性。大量のウイルスを含む飛沫には、マスクの着用が非常に有効なことが確認できた。しっかりと顔に密着する不織布マスクを使えば、相手への感染を防ぐだけでなく、感染から自分の身を守る効果があることも分かった。

山川さん個人の見解では、同じ空間にいる全員がマスクをすれば、感染リスクを大きく下げることができる。マスクの重要性を示すシミュレーションは、米国のニューヨークタイムズ紙でも特集された。

現在はさまざまな空間で、ウイルスを含む空気がどう流れるのかを研究しており、最終的には、スマートフォンで室内の気流を測定し、最適な換気方法を示すことがで きるようになるという。

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きっかけは2009年の新型インフル

山川さんがウイルスの感染経路の研究を始めたきっかけは、2009年の新型インフルエンザの大流行だった。米疾病対策センター(CDC)などの推計では、死者数は世界で約28万人に上った。厚生労働省によれば、日本国内でも203人が死亡した。

「このウイルスでは、多くの日本人が抗体を持っていたようで大規模感染には至りませんでした。しかし、もしも抗体を持たない型が広がっていれば、大惨事になっていたはずです」

山川さんはウイルスの専門家ではない。しかし、当時6歳と10歳だった娘たちが眠る姿を見て、「工学者の自分にできることはないだろうか」と考え始めたことが研究に取り掛かるきっかけだったと振り返る。

流体力学の専門家として着目したのが、ウイルスを運ぶ“空気の流れ”だ。

画像: 山川さんはさまざまなスポーツの“空気の流れ”も研究対象にしてきた

山川さんはさまざまなスポーツの“空気の流れ”も研究対象にしてきた

一般的な感染経路は3種類ある。

一つ目は、病原体が付着している手などが粘膜に直接触れることにより生じる「接触感染」。二つ目が咳やくしゃみなどによる「飛沫感染」で、水分を含んだ直径5ミクロン以上の粒子を介して感染する。

そして、三つ目が空気(飛沫核)感染。咳やくしゃみ、呼気に含まれる直径5ミクロン以下の微粒子(飛沫核)を介して、空気を媒体として感染が起きる。飛沫核は小さく、軽いため、空中に浮遊し広範囲に広がりやすい。

接触・飛沫感染は手洗いやマスクの着用など個人の対策である程度防ぐことができる。一方で、空気を媒体とする感染は個人の対策が難しく、この“空気中を漂うウイルス”が実は感染を広げているのではないか、と山川さんは考えた。

「人と人との間にある空気を媒体にウイルスはうつります。つまり、健康な人へウイルスが届かないようにすれば、感染リスクを下げられる。『感染を予防できる仕組み』という意味で“ワクチン”と呼んでいるのです。新たなウイルスが出現した時、医学的なワクチンの完成には時間がかかりますが、空間のウイルス量を減らす工学ワクチンは、どんなウイルスにもある程度有効です」

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「使えない研究」と言われたことも

しかし、周囲の反応は冷たかった。

山川さんによれば、当時、空気感染ははしかや結核などの感染症で起こるもので、インフルエンザウイルスやコロナウイルスでは起こらないとされていたという。「空気感染は起こらない」「使えない研究だ」……。そんな言葉を投げつけられることもあった。

それでも山川さんは研究を続けた。

「空気がウイルスを運ぶ限り、空気を媒体とした感染は必ず起きているはず」——。そんな自分の発想を信じたからだ。

研究を進める中で、ウイルスを含んだ粒子が気流とは違う動きをすることを発見。室内での感染経路をシミュレートする手法を確立した。気道内でのウイルスの動きをシミュレートし、口呼吸だと罹患率が10%高まることも明らかにした。

画像: 「使えない研究」と言われたことも

そして2020年、新型コロナウイルスのパンデミックにより、工学ワクチンは一躍注目を浴びるようになった。「ウイルスの動きのシミュレート方法を教えてほしい」と、別の研究者からも聞かれるようになったという。

F1への興味から流体力学の世界へ

山川さんが流体力学の研究に入ったきっかけは、学生時代から夢中になった「F1」だ。約25年前の当時、日本では、空前のF1ブームが巻き起こっていた。ドライバーやチームの実力ももちろん重要だが、ボディの形状を決めていた流体力学に心惹かれるようになったという。

「当時から、単純にいいコンピュータを持っているチームが強かった。流体力学を高精度に解析できる設備、環境が整っているチームが強かった。そこから流体力学、中でもコンピュータを使った計算流体力学の世界に入っていきました」

身近なところでも、流体力学は社会に活かされているという。

「例えば、(新幹線の)細長い500系の空気抵抗が低いことは想像しやすいですが、700系からはカモノハシのようなボディになりました。この形が速いという感覚はなかったのではないでしょうか。感覚だけによらず、最も良い形状を弾き出していくことが流体力学の役割なのです」

画像: 学生時代の山川さん

学生時代の山川さん

10年後、「空飛ぶ車」は実現される?

研究室では学生たちとさまざまな研究に取り組む。自転車競技の空気抵抗を研究したり、水泳選手の動きをシミュレートしたり。選手の細かな動きも含めて複雑なシミュレーションをする。精度の高さが研究室の自慢だ。

中でも近年、力を入れているのが「デジタルフライト」の研究だという。

デジタルフライトとは、計算の中で飛行機を飛ばすシミュレーション技術。「周りの空気の状況を完全に把握すれば、どんな時に機体が揺れるのか、墜落してしまうのか、という予測ができるようになる」という。精度が上がれば、より安全な飛行が簡単に実現できるようになる。

山川さんは10年後には、「空飛ぶ車」のような小型の飛行機が実用化されると見込んでいる。商用化が進めば、多くの「車」で空が混雑するようになり、そうなれば、道路を走る自動車と同じような安全システムが必要になる。その際に、さまざまな「車」が行き交う空で、空気の流れを正確に分析し、機体への影響を予測することが欠かせなくなるという。

画像: 宙返りをする飛行機のシミュレーション

宙返りをする飛行機のシミュレーション

この計算を行うにはスパコン並みの処理能力が必要だが、山川さんはその頃には「小さなノートパソコンが富岳に匹敵するスペックを持つようになる」と予想しているという。

多くの人から見れば夢物語のように思えても、いつか必要になる時が来る——。工学ワクチンを発想し、研究を続けてきたことと同じだ。「デジタルフライト」の研究が、実用化に結びつく時が必ず来る、と山川さんは確信している。

どうしてそんなに「確信」できるのですか——。取材チームの質問に、山川さんはこう答えた。

「正しいと思うからです。そう考えて研究を始め、進めるほどに確信が強まっています。研究の過程で必ず問題が起こりますが、諦めずに乗り越えていくことで新しい解決策が見えてくる。自由な発想の中で新しいものを生み出し、課題を解決していく。そこで新しい知識が生まれます。その知識をもっとよいものにして、後世に財産として遺していく。そうした知識が、何かの時に役に立つはずです」

どれだけ時間がかかっても、信じることを探究する。そこから、新しい社会の可能性が見えてくる。

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